本稿は、『遙かなる時空の中で』(『遙か』)シリーズの「天の白虎」に関する文章です。 ……怪文書です。 ジャンルとしては評論に分類されると思われます。
まずは真面目な前置きを。
本稿は、私が自らの人生を生きるに際して必要なある問いに対し、暫定的な回答を示すことを目的としています。
したがって直接的には、自分自身および私と同じ問題意識を抱えてしまった誰かのための文章です。
「天の白虎」という概念を扱っているためにハイコンテクストになり過ぎた問題を整理し、遙かシリーズのプレイヤー以外にも理解できるような内容を目指しました。
はっきりとした目的はそんな感じですが、面白いこと考えたら書き留めておきたくなるじゃないですか。 あと思考を保存したい。
ざっくりとしたテーマは、タイトルでも触れた「人間への信頼」と「天命」についてです。 メメント・モリしています。
以下ではゲーム(『遙かなる時空の中で3 Ultimate』、『遙かなる時空の中で6 DX』、『遙かなる時空の中で7』、『下天の華 with 夢灯り 愛蔵版』、『ファイアーエムブレム 風花雪月』、『Pokémon LEGENDS アルセウス』、『バディミッション BOND』、『シェルノサージュ』、『アルノサージュ』)および小説(『十二国記』)の内容への言及があります。 ネタバレを含みますことをご了承ください。
未プレイ向け作品紹介を含めて前置きが長いので、本題だけ読みたい方は2章からどうぞ。
前提情報
未プレイ向け解説
本稿の考察の前提として、未プレイの方向けに「ネオロマンス」および『遙かなる時空の中で』シリーズについて説明します。 基本的な情報しか出てきませんので、ご存知の方は読み飛ばしていただいて問題ありません。
ネオロマンスとは、コーエーテクモゲームス内のブランド、ルビーパーティー(ルビパ)開発の女性向け恋愛シミュレーションゲーム(いわゆる「乙女ゲーム」)の名称です。 あらゆる乙女ゲームの中で、ルビパ作品のみがネオロマンス(ネオロマ)と呼ばれます。 まだ「乙女ゲーム」というジャンルが存在していなかった1994年、最初の乙女ゲームとされる『アンジェリーク』が光栄から発売されました(B's-LOG.com 2018)。 「ネオロマンス」という名称はこの頃から用いられています。
ネオロマンスの主なシリーズは『アンジェリーク』、『遙かなる時空の中で』、『金色のコルダ』の3つです。 このうち『遙かなる時空の中で』は、日本史上の特定の時代をモデルとした異世界ファンタジー作品であり、無印~7のナンバリング作品(本編)およびファンディスクが発売されています。
筆者の立場
本項では筆者についての情報を提示します。 本項までは読み飛ばしても記事の内容は理解可能ですが、ネオロマンス作品に対する基本スタンスについても述べていますので、筆者の立場が分かりやすくなると思います。
既プレイ作品
既プレイのネオロマンス作品の一覧(プレイ昇順)を以下に示します。
- 遙かなる時空の中で7(Switch)
- 金色のコルダ スターライトオーケストラ(スマホ)
- 遙かなる時空の中で6(Switch)
- アンジェリーク ルミナライズ
- 遙かなる時空の中で6 幻燈ロンド(Switch)
- 遙かなる時空の中で3(PS Vita)
- 遙かなる時空の中で3 十六夜記(PS Vita)
- 下天の華(PS Vita)
- 下天の華 夢灯り(PS Vita)
本稿では、上記作品のうち『遙か』および『下天の華』の2シリーズを扱います。 以下は各シリーズの概要です。若干のネタバレを含みます。
『遙かなる時空の中で』
先ほど軽く説明した通り、日本史上の特定の時代をモデルとした異世界ファンタジーです。 あくまでも異世界ファンタジー。 怨霊とか出る。とはいえ開発元がコーエーなので、その辺の作品では太刀打ちできないくらい歴史創作としてのクオリティは高いです。
『遙か』シリーズの主人公は「龍神の神子」として異世界に呼び出された現代人(たしか全員高校生だったはず)で、攻略対象の「八葉」は龍神の神子を守るために龍神によって選ばれた人々(8人いる)です。 八葉は異世界人だったり、神子と同時に召喚された現代人だったりします。 設定上、神子(白龍と黒龍の2人)に選ばれるのは女性のみ、八葉は男性のみです。 まあ、よくあるやつです。 「よくある」になるのに『遙か』が一役買っていると思われますが。
また、他では見たことのない数の古典引用が飛び交うのも大きな特徴です。 そしてそこに言外の意味がある。 結局いつもスマホ片手にプレイすることに……
『遙か3・6・7』の本編はそれぞれ、源平合戦期・大正時代・戦国時代をモデルとした世界を舞台にしています。 より正確に言うと開始時点で宇治川の戦い直後、史実における関東大震災の2か月半前、関ヶ原の戦いの1年前です。 また、3と7では歴史上の人物をモデルとしたキャラが攻略対象として登場します。
各作品を一言で表すと「佛ロマンス」「大正デモクラシー」「天道思想ロマンス」です(造語した)。
最近「佛パンク」というSFジャンルを知ってしまったんですよ……。 「佛ロマンス」の元ネタはそれです。 『遙か3』は史実の「治承・寿永の乱」というよりは『平家物語』をモチーフとした作品です。 諸行無常。 また、執着や愛別離苦についても取り扱われます。 そう考えると、(仏教の執着なので必ずしも恋愛文脈で語られるわけではありませんでしたが)仏教と恋愛作品の親和性はわりと高いのですかね……。 ゲームシステム自体が鶴岡八幡宮の静御前の和歌(の本歌)をリフレインさせているし、輪廻転生していることに気づいたときは本当にマジで驚きました。
大正時代を舞台とした作品は「大正ロマン」文脈のものが多いですが、『遙か6』は「大正ロマン」の要素を含みつつ「大正デモクラシー」をメインに据えています。 草の根民主主義の物語です。 日本のゲームシナリオとしては、かなり直接的な政治性を発揮していると思います。
戦国期には、天の秩序と摂理を信仰する「天道思想」という宗教観があります(神田 2016)。 『遙か7』では、登場人物の思想の根底にこれが流れています。 そもそもキャッチコピーからしてそんな感じ(だとプレイ後に判明する)なので……。 『遙か7』は社会背景の設定が凝っているようで、副読本として戦国時代の社会史に関する本を読むと「進研ゼミでやったやつだ!」が発生します。 ちなみに前述の『戦国と宗教』(神田 2016)とか『喧嘩両成敗の誕生』(清水 2006)とかを読みました。
『下天の華』
『信長の野望』30周年記念作品。
または本稿の立役者。
舞台は三職推任前後の安土城です。 歴オタにしか伝わらない! 本能寺の変の直前です。 また、ファンディスクの『夢灯り』では信長が本能寺の変を乗り越えており、羽柴秀吉による中国攻めが終わった後という設定になっています。
主人公は明智光秀に雇われた伊賀の忍びで、光秀の妹として安土城に滞在します。 攻略対象は織田信長と明智光秀、その周囲の面々。 羽柴秀吉とか徳川家康とか。 超豪華です。 史実の織田信長の側室に明智光秀の妹がいるので、主人公の元ネタの一部はその人だと思われます。
『下天の華』の状況設定として特異的な点がありまして、なんと織田信行が生きています。 あと主人公が忍術で変化する。
なぜネオロマンスなのか
私はゲーマーとしてはRPGを中心としており、『遙か7』以前は恋愛シミュレーション自体、数えるほどしか遊んだことがありませんでした(理由は後述)。 そのような状況であったにもかかわらず、『遙か7』をプレイしようと考えたきっかけは『FE風花雪月』です。
『風花雪月』は『遙か7』と同じく、コーエーテクモゲームスによって開発されたSRPGです。 本作は人物造形や関係性の描写が非常に優れており、発売当時Twitterにおいても評判となっていました。 このような人物描写の巧みさがネオロマ作品においてよく表れている、と目にしたのが最初の遭遇です。 とはいえこの時点では読み流してしまったため、ネオロマに手を出すには至りませんでした。
状況が変化したのは『遙か7』の発売直後の時期だったと記憶しています。 『風花雪月』と『ドラゴンクエスト』関連でTwitterをフォローしていた方が、『風花雪月』と絡めて『遙か7』の宣伝をされていました。 それが直接のきっかけとなって体験版を始め、歴史ゲームとして面白かったから買うことにした*1、というのが大体の流れです。
物語として面白いという以外で、私がネオロマ作品をプレイする理由は大きく2つに分けられます。
1つ目は単純で、哲学系の考察ネタになるからです。 本稿はまさにその成果と言えます。
2つ目は恋愛シミュレーションに手を出してこなかった理由でもあります。 恋愛感情なるものが何なのかを明確には理解していないからです。
Technical termを用いて言い換えると、恋愛的指向についてaromantic spectrum*2上に位置しているからです。 (本稿の想定読者のうち一定の割合*3にとっては初出の語が並んでいると思うので、興味があったらsplit attraction modelとかで検索してください)
私が恋愛感情をいまひとつ理解していないのは、少なくとも一般的な意味での恋愛感情を持つような思考特性をしていないからでしょう。 遠いものを理解することは難しい。 しかし、難しいからといって諦めたくはないわけです*4。 ある感情を持たないことは、それを理解できないことを意味しません。 私が恋愛作品を読む/観るのはこのためです。
恋愛を主題とするジャンルは主に少女小説を通ってきたので、それらについての言及となりますが、恋愛作品の受容においては「お約束」の消費という側面が強めに存在します。 よってその性質上、現実に追いついてくれないフィクションが多くなります(ので追いついてくれるものを探している)。 これ自体は悪いとは思いませんが、お約束性の強い作品は私の需要には合致していません。 小説(や漫画*5)なら合わない場合にやめることが容易ですが、ゲームは買い切りが多い以上どうしてもコストが高くなります。 このようなわけで、恋愛シミュレーションにはあまり興味がありませんでした*6。
創作物一般の物語要素において私が求めているものは、思考実験または感情のシミュレーションです。 簡単に言うと「多数の異なる生き方について検討し*7、知らない感情を理解する」というようなことです。 ネオロマンス作品は、関係性に関する描写の精細さと個別性が際立っており、この要件を高水準で満たしています。
天の白虎の「光」
八卦と八葉、天の白虎
『遙か』シリーズの攻略対象である「八葉」*8は、「八卦」をベースとしたキャラクター造形がなされています。
八卦は古代中国で成立した易における概念であり、宇宙のあらゆる事象を8つ*9に分けたものです。 この「宇宙」は『LEGENDS アルセウス』でコギトが「往古来今 謂之宙 四方上下 謂之宇」(『淮南子』)と言っていたのと同じもので、spaceではなくuniverseやcosmosの方を指します。 また、『どうぶつの森』の占い師・ハッケミィの名前の由来にもなっているように、占いで用いられる概念でもあります。
八葉は天地と四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)を組み合わせた8つの役割で構成され、それぞれに八卦が対応しています。 戦闘時の五行属性も八卦に対応したものです。 このうち本稿の主題である「天の白虎」は、「乾」(陽-陽-陽)を表すポジションです。
先行研究
初ネオロマンス作品として『遙か7』をプレイし始めた頃、八卦と八葉の性質についての考察記事(照二朗 2020a)を読みました。 そのため、八葉の性質についての私の解釈はこの記事をベースとしています。 本稿の内容の前提にもなっており、白虎の項だけでも読んでいただいた方が正直話が早いのですが、一応重要部分のみ後ほど引用します。
また、天の白虎および天の白虎的な人物のサンプルとして後ほど『遙か7』の黒田長政と『FE風花雪月』のフェルディナントが登場します。 彼らの性質についての考察としては、上述の八卦解釈記事と同サイトの以下の記事(照二朗 2020b,c)が分かりやすいです。 本稿では必要な部分にしか言及しないので、2人の人物像を詳しく把握したい方はこちらをお読みください。 本稿の考察とも一部リンクしています。
www.homeshika.work www.homeshika.work
五行の属性について、白虎は「金」と対応します。
(前略)白虎の「金の気」は鉱物としての金属だけでなく金属光沢のようなピカピカのきらめき、金属を研いだ刃のような切れ味、金属を加工する人間らしい技術の光などをあらわします。
これは『遙か』シリーズの中では伝統的に「社会に参画する一人前の大人の男」の役割に描かれています。スーツを着ているタイプの男です。
『遙か』シリーズで白虎にもたされた美徳は「強さ」であり、それは武人である青龍がふるうような物理的な強さではなく「政治力」であり「人間らしい社会手続きを通すこと」を意味します。白虎のキャラは八葉の中で最もまともな社会的地位を持っている、あるいはそれを目指していくことが多いです。
(太字と色は元記事に準拠)
八葉デザインの「八卦象意」―『遙か』と日本文化の世界①(照二朗 2020a)
緑の部分が白虎の八葉の性質です。
ここでいう「男」は、実際の性別としての男ではなく(ジェンダーバイアスを含んだ)性質としてのものです。 (乙女ゲーなので)八葉は全員男性ですが、「女」に対応する性質のポジションもあります。
また、天の白虎の乾は、天や父を表す卦です。
天の白虎の中心的イメージは「破邪顕正」です。「理想」「かくあるべき人間の姿」を「あまねく示す」ことをあらわします。
(中略)天の白虎は「けがれなき天」と「正しい父」をあらわし、上に立って潔白に輝くことから『遙か』シリーズでは代々「太陽(日輪)の光」を必殺技の属性にしています。「君子」と呼ばれるような正しさと徳の輝きで世をあまねく照らそうとするのが乾の卦です。
『遙か』シリーズで守られている人物像は「模範的な大人」です。「優等生」であり「委員長」であり、しばしば「まだ強い権力をもたない青い若造」でもありますが、それは純粋なる理想を追い求めて世に示す本質を際立たせます。(中略)彼らはみな自分の生きている間に叶わないかもしれない理想を想って生きぬき、近道をしない王道を地道に(道ばっかり言ってしまった)いく姿を周りに見せます。(後略)
八葉デザインの「八卦象意」―『遙か』と日本文化の世界①(照二朗 2020a)
天の白虎には「理想」があります。 これを太陽の光になぞらえて表現したものが本稿における「光」です。
私は天の白虎である
私の人間性のある一面*10が、天の白虎の性質と極めて近いという意味です。 そして、これが本件をハイコンテクストにしている最大の原因です。 後述しますが、本稿で回答を目指す問いは、私が天の白虎的な人物であるという前提の上で浮かび上がってきたものです。
私の「光」は「人類の知」です。 人類が積み上げ続けてきた学問的知識であり、人がよりよく生きるための倫理であり、世界を認識し形作るための力です。
自分の思想を「広い意味での知性至上主義*11」と説明することがあります。 これは「知情意」の中で「知」を特に重んじる態度であり、「真」無くして「善」と「美」は成り立たないと見る態度です。 同時に、知的存在としての人間への信頼でもあります。 知性によって、人がより正しく美しく豊かに——哲学の語彙で言えば幸福に——生きることができると信じているのです。
記事の成立経緯
事の発端——『遙かなる時空の中で3』
事の発端は『遙か3』の天の白虎・有川譲でした。 『遙か3』の感想をTwitterに放流していた際に、相互フォロワーさん*12と「天の白虎の『光』が陰ること」について話したのが本件の始まりです。
譲の「光」は『遙か3』の主人公・春日望美です。 一方で、譲より前に見た『遙か6・7』の天の白虎は「光」を特定個人には置いていませんでした。 この点において、譲は天の白虎としては異端的な人物です。 特定個人である以上、その「光」は失われる可能性が高くなります。 実際、選択肢によっては白龍の許へ行った望美が現世に帰ってこない可能性もあるわけですから、作中においても想定されている事態です。
では、「光」が特定個人でない場合は?
失われる可能性がないと言い切れるのか?
言い切れないと私は考えています。
これが本稿の根底にある問題意識です。
天の白虎の理想の光が陰り、失われたら、私は困ります。
というか、私が困ります……。
その可能性は他人事ではありえません。
ここで残念なお知らせです。
「失われたらどうしよう? 困る!」への回答はまだ示せていません*13。
問い
先ほどの問いにそのまま回答することは難しかったため、問いの設定を見直しました。
「『光』を失っていない」とはどのような状態を指すのか?
「光」を失わないためにはどのように振る舞えばよいのか?
前者への回答はさほど難しくありません。 「人間に絶望していない」状態です。 知に絶望すること*14は人間に絶望していない限りありえないため、今回は人間について扱います。
さて、本稿で扱う問いを再掲します。
光を失わないためにはどのように振る舞えばよいのか?
ルビパから回答が来た——『下天の華 夢灯り』
本稿の結論を先に示します。
ただし、これは前述の問いに対する暫定結論の一般形であり、今後修正される可能性があります。
また、一般形なのでそのままの形ではよく分からないと思います。
「美しいものを愛せば心折れずに済む」
この文は『下天の華 夢灯り』からの引用です。 かれこれ一年半ほど上述の問いについて考えており、ある程度の結論は出ていたのですが、つい先々週あたりに『夢灯り』をプレイしていたら一般形を見つけてしまいました! そういうわけで成立したのが本稿です。
光を失わないために
失われる可能性
「『光』を失わないためにはどのように振る舞えばよいのか?」という問いに回答する前に、まず考えなければならないことがあります。 「どのようなときに『光』が失われうるのか?」ということです。 これが望ましい振る舞いを考えるにあたっての前提条件となります。
世界からの隔絶
回答を先に述べると、「自らの力ではどうすることもできない困難に直面したとき」です。 (実態はどうであれ)世界に対して自分の行動が何の影響も及ぼすことができないという諦めを抱いたとき、私は「光」を失いうるでしょう。 と言っても一般化しすぎて流石に伝わらないと思うので、極端な例を見ていきます。
『夜と霧』
読んだことのある方も多いと思います。 第二次世界大戦中、ナチスの強制収容所に入れられた心理学者による体験記です。 『夜と霧』に記された強制収容所での体験が、「自らの力ではどうすることもできない困難」であることは論をまたないと思いますので、詳細については割愛します。 『下天の華』のプレイ以前に組み立てた論は、『夜と霧』をかなり参考にしていたので、本稿の何割かは本書のおかげです。
有岡城の官兵衛
本稿成立の功労者、『下天の華 夢灯り』の黒田官兵衛です。 いや、有岡城幽閉周りは史実ベースの設定なので元ネタの方でも問題はないのですが、史料の信憑性の議論に立ち入りたくないので『夢灯り』の方を扱います。 前述した結論の発言主でもありますし。
官兵衛の有岡城幽閉~救出の経緯は以下。 固有名詞はフレーバーなので気にしなくても大丈夫です。
- 有岡城主・荒木村重と共に織田信長への謀反を起こそうとした主君・小寺政職を翻意させるため、使者として有岡城に赴く。
- 小寺政職の裏切りにより有岡城内の牢に幽閉される。
- 約1年後、有岡城落城に際して救出される。
よく正気を保っていましたね!(言い方)
牢から見える藤の花が咲くことを夢見て希望をつないだ、と作中では述べられています
(このエピソードも実在の黒田官兵衛由来のものです。信憑性は怪しいようですが……)。
他人事で終わるとは限らない
終わってほしいですけどね。
たとえ上述した例ほど極端な事態に陥らなかったとしても、身動きの取れないような困難に見舞われることは十分に考えられます。
極端な例を考える意義は、そのような事態に対して応用可能な心得をあらかじめ用意しておくことにあります。
「摩擦は無視できることと」します。
信仰の領域
自分の行動が世界に対して何の影響も与えられない状況に陥ったとき、人間はどのようにしてよく生きることができるのか? どのような心を持てば自らの精神を救うことができるのか?
この問いに対する私の回答は信仰の領域に属します。
自己超越的な何か
「倫理に信仰は必要か?」という定番の問いについて、私は「必要である」という立場です。 ただしこれは、宗教が必要であることを意味しません。 アブラハムの宗教の文脈において、私は定義的には不可知論者です。 「怪力乱神を語らず」とは『論語』の一節ですが、存在するとも存在しないとも証明できないもの*15について、その有無を語る言葉を私は持ちません。 ここで主張しているのは、人が正しく生きるためには自己超越的な何かを想定する必要がある、ということです。 それが実際に存在するか否かは問題ではありません。 ただ、存在すると想定していた方がよりよく生きることができるだろうと考えています。 「不合理ゆえに我信ず」*16とも言いますし。
未来を望めない状況に置かれたとき、自分自身の他に信じるものを持たない人間は行き詰まります。 世界が自分の死によって消え去ると考えているのならば、死に直面した人間が何を為そうとも、もはや意味はありません。 そうなった先にある態度は刹那的で利己的なものとならざるをえないでしょう。 「我が亡き後に洪水よ来たれ」*17です。 私はこれをよいものとは思いません。 よい生き方とは思えません。 未来があると信じられる間は問題にはならないでしょう。 しかし、自分の未来が見込めなくなったとき、我が身のみを恃みとして生きるのでは保つことのできない尊厳があります。 だからこそ、自己超越的な何かを想定し、それを信じていることにする必要があるのです。
天命は何処に
信仰の在り様について述べるにあたって、まずは「天命」について検討します。
天命についての解説は私がするより調べていただいた方が確実だと思うので割愛しますが、雰囲気を掴みたい方は『遙か7』か『LEGENDS アルセウス』をプレイしていただくといいんじゃないでしょうか。 『遙か7』の「運命」、『アルセウス』の「使命」です。
最初にお断りしておきますが、以下で述べる内容は「天命」概念の現代的応用であって、伝統的でスタンダードな解釈とは必ずしも一致しません。 また、専門外の分野なので間違った理解をしている可能性があります。 ご了承ください。
まず、私が「天」という概念をどのように理解しているかの説明から始めます。が、人によっては先に個別事例を読んだ方が分かりやすい可能性があります。 お好みでどうぞ。
「天」は「世界」に近接する概念です。
(前略)場所のうちにある「私」にとっての場所は、究極的には、「世界」と、世界を超えつつむ虚空のごとき見えない限りない開けという、見えない二重性の場所(仮に、虚空/世界と言っておく)である。人間主体は世界の内で「私」と言いつつ、世界の内にあることによって、同時に、世界を超えつつむ限りない開けにまで「私ならずして」通っている。(中略)世界の内にあることによって、同時に私たちは「限りない開け」のうちにあるのである。世界の内で「私」と言いつつ、「私なくして」限りない開けにまで通っている。このようなあり方で「私」なのである。このようにして、虚空/世界が「私」の、すなわち「私は、私ならずして、私」という「私」の究極の場所である。
『私とは何か』(上田 2000: 20-21)
いくら岩波新書とはいえ、新書とは思えない哲学テキスト感を漂わせている……
上田(2000)によると、東洋思想においては「天」という概念によって、このような世界の二重性を取り扱っています。
実感としては理解しているつもりなのですが、説明は難しいですね……
私は「天」を、現在のみならず過去と未来を含み、可能性を含み、物理現象が起こる範囲*18を超える包括的な……範囲ではない……何だろう……として理解しています。
「世界」は意味の幅が非常に大きい語彙ですが、それを限界まで広げた感じです。
私の「世界」概念の理解は「サージュ・コンチェルト」シリーズの世界観設定の影響を受けているので、あまり一般的でない可能性があります……。 リンク先のページは本編未プレイでも問題なく読めるので、こちらを読んでいただくのが早いと思います。 一応簡単に説明しておくと、「世界」を構成する次元を段階的に拡張し、最終的に無限大に飛ばします。 これが「天」です(少なくとも私はそのような意味で用いている)。
以下では個別事例を通して天命について考えていきます。
『夜と霧』
『夜と霧』で天命の話がされているわけではないのですが、「コペルニクス的転回」のくだりは天命の現代的解釈として理解することが可能です。
(前略)わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。(中略)生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
『夜と霧』(フランクル 2002: 129-130)
(中略)ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。(後略)
「生きることの問い」は自分を取り巻く世界からの問いと理解することができます。 この世界で生きる人間に対し、具体的かつ個別の状況に具体的かつ個別に対応することが求められる。 天命もまた、そのような形で表れるものです。
出典を忘れてしまったのですが、中国史においては「玉璽を手にした者に天命が下っている」という思想があります (またもやうろ覚えの余談ですが、NHK?の番組で中国の古美術コレクターが「皇帝の器を手に入れる者はそれに相応しい者である」というようなことを話しており、現代にもその思想が残っていることが判明して感慨深かったです)。 ここにおいて、天命は状況証拠的に受け取られています。
天命は明示されるものではありません。 現実世界の具体的な状況によって示され、行動を求められるそれは、「生きることの問い」と近しいものと考えられます*19。
黒田長政
続いては『遙か7』の天の白虎、黒田長政です。 ようやく天の白虎が登場しました。
『遙か7』は天道思想ロマンスなので天や天命について直接・間接の言及があります。
天が俺たちを試しているのさ
困難の中で
見事に生き抜いてみせろとな(改行位置はゲーム内テキストに準拠)
『遙かなる時空の中で7』黒田長政
(ルビーパーティー 2020: 共通149)
ここには、人間がすべきは天や人生からの恵みを期待することではなく、その試練に対する応答を自らの行動によって示すことである、という思想が表れています。 天からの試練とはつまり天命です。 同時に、『夜と霧』における「生きることの問い」と同様のものでもあります。
長政の台詞は以下のように続きます。
俺の心は天が知っていれば
それでいい
自らの生を「天に示す」ということを「世界に示す」と解釈するならば、それは「自分自身に示す」という意味を含みます。 自分もまた世界の一部であるので。 それを踏まえるに、「天が知っていればいい」は「自分が知っていればいい」という意味でもあります。 神に類する存在の有無はここにおいて本質的な問題にはなりません。
フェルディナント=フォン=エーギル
『FE風花雪月』における天の白虎です(もちろんFEに「天の白虎」という概念は登場しない)。 「私は天の白虎である」と前述したのと同じような話で、フェルディナントの性質が天の白虎的であるということです。
フェルディナントによる天命への言及は以下の通りです。
私は統一後も君*20と先生の力になる。
『ファイアーエムブレム 風花雪月』フェルディナント
無事に勝利に導いてみせるさ。
それが誇り高き貴族の使命であり、
私が自身に課した天命なのだから!
(シブサワ・コウ 2019: 紅花18)
意味不明だと思います。 天命は自身に課すものではない (フェルディナントには、こういった「よく考えたらおかしくない?*21」という発言が多いです)。 一方で、「私が自身に課した」さえなければ具体的な状況に具体的に応答しようという意志であり、常識的な内容です。
(前略)人間主体は自覚的存在であり、自覚において主体は二重に照らし出される。すなわち、現にある自分と、あるべき自分と。現にある自分を反省せしめ導く光としての「あるべきである」あり方は、単なる理想ではない。本来の構造からきているのである。いわゆる現実の自分だけが自分なのではない。現実の自分と、「あるべきである」自分との関わりそのものが自分なのである。
『私とは何か』(上田 2000: 125)
「私」は現にある形で固定され続けるものではありません。 他者と関わり、世界と関わりながら生きることを通して、双方向的な影響が生じます。 誰も他のものから独立して存在することはできません。
以上を踏まえれば、フェルディナントの発言の意図が理解できます。 天=自分という解釈が可能だということです。 天命が明確な形で与えられるものではない以上、人はそれを自分自身で見出す必要があります。だからこそ、「五十にして天命を知る」(『論語』)と言われるわけです。 天命は天によって課されるものではありますが、実際の運用上は自分自身によって課されるものです。 そして、その「私」は「世界」=天と関わりを持つ中で形作られます。 「天命を自身に課し、それを果たす」ということが「生きることの問いに答える」ということです。
理性と共にある愛
合理主義者としての天の白虎
天の白虎は人間に対して特徴的な態度をとります*22。 人間が人間であるが故に持つ力を信頼する、という態度です。 その力は理性と知性に属します。 西洋哲学の用語を用いるなら合理主義と表現することができるでしょう。
ルードハーネ
最初に見ていくのは『遙か6』の天の白虎・ルードハーネさんです。 さん付けしたのは私がルードハーネさんを尊敬しているからです。 模範としたい。
本題の前にお断りしなければならない点があります。 ルードハーネを含め、遙かシリーズに登場する「鬼の一族」は正確には「人間」「人」ではありません(ホモ・サピエンスではありそうだけど)。 しかし、本稿における「人間」「人」には鬼の一族を含むものとしてお読みください。 鬼の一族の境遇は差別問題の写像としても働いています。 そのため、他の包括的な語彙を用いることができればよかったのですが、適切な範囲をカバーする語彙が見つかりませんでした。
では、本題に入ります。
天の白虎の合理主義的側面を語るにあたって、ルードハーネを飛ばすことはできません。
なぜなら、ルードハーネは教育を志す人物であるからです。
先に「人間が人間であるが故に持つ力」とは述べましたが、知性は学習を通して身につけられるものです。
知性の大部分は先天的なものではありません。
よって、知性は必ず再生産されなければならず、教育はそのために必要な営為です。
別の表現をするならば、教育を通して知性化されることで、ホモ・サピエンスは人間に成ります。
どんな人にも
『遙かなる時空の中で6』ルードハーネ
各々を生かす場所があると信じ
公平に個性を伸ばそうとする
まさしく、過去
私が授かった教育を
実践していらっしゃいましたから
(ルビーパーティー 2019: ルード27)
これは、教育を志すきっかけとなった人物(村野)についてのルードハーネの評です。 村野もルードハーネも、人の知性を信じています。 それは、一人一人がよりよい能力を持ち、よりよく生きることができるという信頼です。
黒田長政
再登場の黒田長政(『遙か7』)です。 後でもう1回出てきます。
長政の生き方にはある特徴があります。 役割に対して適切に振る舞う、というものです。 黒田家の当主として、あるいは八葉として、立場に相応しい振る舞いを志向しています。 主君と臣下という正反対の立場であるにもかかわらず、その2つの役割に対する長政の態度には強い一貫性が見られます。 天命を自らのものとし、それに応答しようという態度です。
役割に沿った振る舞いと言うと、変えることのできない運命に対して受動的に生きる態度が想起されます。 しかし、長政の生き方は運命を甘受し、諦めるものではありません。 人間の義務を果たし、望ましい未来を掴むための闘いとも呼べるものです。
ひとたび浮世の旅に迷い来た以上
『遙かなる時空の中で7』黒田長政
俺たちは
この世の務めを果たさねばならん
(ルビーパーティー 2020: 長政12)
だが、人は生まれを選べない
『遙かなる時空の中で7』黒田長政
己の生まれた場所で必死にあがき
少しでもましな未来を
つかみ取るしかない
(ルビーパーティー 2020: 長政39)
「義務だと思ったからよ!」(小野不由美『図南の翼 十二国記』)です。 私は『十二国記』キャラの中で珠晶が一番好きです。
それはともかく、長政は人生に対してこのような態度を持っています。 誰であろうと、人間であることの義務から逃れることは許されません。 それは一方で、「自分は相応しい振る舞いをしているのだから、皆もそのように在るべきだし在れるはずだ」という信頼でもあります。 清々しいほど真っ直ぐで厳しい「天の白虎の理想」です。 気合が入っている。
長政が立場に相応しい振る舞いをするのは、人の力は信じるに値することを示すため、という側面があります。 自分自身に対しても、他者に対しても、人は正しく生きられるのだと世に顕しているのです。
平熱の感情
ここまでに見てきたような人間に対する信頼を、私は自分自身のものとしたいのです。 これは自分の人格の一部にするという意味です。
(前略)「消耗熱(febris hectica)」は、「習慣」を意味するέξις*23というギリシア語に由来しています。発熱が習慣化して持続している状態のことですね。(中略)消耗熱が長期間続いていると、いくら高熱であってもそれが常態化しているので、あまり違和感がなくなって、自然なものとして受け取られるようになってしまう。いわば、それが「平熱」という感じになっているわけですね。「習慣と本性になっている」というのはそういう意味です。 『世界は善に満ちている——トマス・アクィナス哲学講義』〔ときに憎しみが愛よりも強いように思われる理由の〕第一は、憎しみが愛よりも一層感じとられやすいからである。感覚の知覚は何らかの変化のうちに存するから、何かがすでに変化させられていると、まさに変化させられているときのようには〔強く〕感じとられなくなる。
だからこそ、消耗熱の熱は、より高いにもかかわらず、三日熱の熱ほどには感じとられない。なぜなら、消耗熱の熱はすでにいわば習慣と本性になってしまっているからである。(後略)
(山本 2021: 155-156)
孫引き部分は『神学大全』です。
トマス・アクィナスの解説本ですが、キリスト教神学に興味なくても面白いと思います。『ニコマコス倫理学』の話とかもしている。
私は平熱で人を愛していたいです。 信頼していたいです。 この「平熱」は、山本(2021)で述べられている「習慣と本性になっている」と同じことを意味します。 一時的な熱病ではなく、覚悟を伴った理性的な感情として、切り離しえない自分自身の一部として、その信頼を抱え続けて生きていたいと望んでいます。
「希望の藤」
無数の花の集合体
本節では、ルビパ作品における藤の象徴性について考察します。 扱う作品は『下天の華 夢灯り』、『遙かなる時空の中で7』、『バディミッション BOND』(『バディミ』)です。 3作とも開発元が同じ(特に『遙か7』と『バディミ』は時期も近い)なので、藤の花に近い意味を持たせていると考えることは飛躍ではありません*24。
藤についての考察に入る前に、『下天の華』シリーズにおいて花が表すものについて検討します。
『下天の華』では、主人公を含めた主要登場人物に対し、モチーフとして鳥と花*25が設定されています。 本稿では遙かシリーズを踏襲し、このモチーフを「象徴物」と呼びます。 このうち花については、主人公・ほたるであればホタルブクロ、黒田官兵衛であれば藤です。 本作では花が人間の比喩となっています。 象徴物として花が設定されているから、という理解でも問題はありませんが、恐らくはそれ以上の意味があります。
『下天の華』本編で、ホタルブクロは「命の灯り」と表現されていました。 それ自体は蛍が入ることで光が灯っていたからですが、このホタルブクロは人間の命と夢の寓意としても用いられています。 ほたるの象徴物がホタルブクロであるのは、夢を持たずに生きてきた心に夢が灯るためです。 したがって、ホタルブクロは「夢灯り」であると理解することが可能です。 一方、『下天の華 夢灯り』において「夢灯り」として言及されているものは灯篭流しの灯篭です。 川に浮かぶ無数の灯篭の炎が、一人一人の人間の夢に見立てられます。
夢は光で、それが人の心に灯ります。 そのことを踏まえるに、『下天の華』における花は人間とその心の寓意です。 また、タイトルの『下天の華』自体が人間を示している可能性が高いと考えられます。
以下では一旦『下天の華』から離れ、『遙か7』と『バディミ』における藤の使われ方を見ていきます。
黒田長政
3回目!
これで最後、象徴物が藤の人としての登場です。
長政の藤は、第一には黒田家の家紋です。 『遙か7』世界の黒田如水にも有岡城の藤のエピソードがあります*26。 かつて有岡城に幽閉された如水の心を慰め、生きる力を与えてくれた花を家紋とした、と長政が話していました*27。
第二の意味は長政の立場と性質に関わります。 これについては、2回目の登場時に説明したこととほぼ同じです。 黒田家の当主として、長政は人間の集団を率いる立場にあります。 そして、一人一人の人間の力と、それらが集まることによって何かが成し遂げられることを信じています。 藤は、無数の花が集まることによって一つの房を形作ります。 『下天の華』と同様に花を人間の比喩として考えるならば、藤の花の形状はまさに長政の立場と性質を表すものです。
スイ・アッカルド
続いての藤の花の人は、『バディミッション BOND』よりミカグラ島の歌姫、スイ・アッカルドです。
スイはステージ衣装が藤モチーフになっています。 なので、スイ本人というよりは歌姫としてのスイが藤の人です。 リンク先からステージ衣装版のキャラデザが見れます。
スイの藤も長政の藤と近い性質を表していると考えられます。 人々を集め、その心をつなぐ、という性質です。 スイは歌によってそれを成し遂げます。 また、『バディミ』の主題歌とスイの歌唱パートは歌手が同じであり、その点においてスイは本作を象徴する人物です。 スイの藤の意味は『バディミ』のテーマでもあります。 そこにおいては、人々のつながりによって未来を切り拓くことができると述べられています。
世界は運行し続ける
さて——。 有岡城の牢に囚われた官兵衛が藤を見て希望をつないだ、という出来事は、どのような意味を持つのでしょうか? そこにおいて、官兵衛は一体何を「見て」いたのか?
恨みや怠惰…そういうものが
『下天の華 夢灯り』黒田官兵衛
よぎる時には——
目を閉じて
藤の花を見るようにした
美しいものを愛せば
心折れずに済む
(ルビーパーティー 2016: 官兵衛11)
「美しいものを愛せば心折れずに済む」
ここに事態の本質が示されています。 美しいものがこの世界に存在すること、 存在すると信じられること、 この先も存在し続けると信じられることです。 一言で述べるならば、「世界が運行し続けるという希望」です。
官兵衛にとってその希望は、藤の花が咲くことでした。 引用した「目を閉じて」というのは「未だ咲かない藤の花を夢見て」という意味です。 ここにおいては、実物の藤の花ではなく想像上の花が思い描かれています。 「美しいもの」が今この場にある必要はありません。
また、『下天の華』における花は人間とその心である、と先に述べました。 この観点から、「美しいものを愛」することを人間を信頼することとして理解することが可能となります。 藤の花が咲くということは、人間たちの一人一人が自らの生に相応しく生きるということです。あるいは、それを可能とする力を持つということです。 それを夢見ています。
このような形で人間を信じるためには、自分自身も美しいものである必要があります。 どのような困難の下にあったとしても、何の身動きも取れない状態であったとしても、人間であることの義務から逃れることはできません。 その義務を果たす必要があります。
人の心は自由なのだということ、いかに過酷な状況においても人は誇りや気高さをを失わずに生きられるのだということを、自らの生によって証明することができれば、人間は——私は人間に絶望しないでいられます。 人間の可能性を信じていられます。 たとえ困難から逃れることができないまま力尽きることになったとしても、その死は不幸のどん底ではないはずです。
春は再び訪れます。 藤の蔓は花をつけるでしょう*28。 自分がいてもいなくても、美しいものは在り続ける。 世界は運行し続ける。 そのように信じられることに、私は希望を見ています。
宣伝という名の宣言
『LEGENDS アルセウス』で天命とか人間への信頼とか知性の再生産とかに関する二次創作小説書いています!
冬コミ目指します!
主要参考文献
ゲーム
- コーエーテクモゲームス. 遙かなる時空の中で3 Ultimate(PlayStation Vita). コーエーテクモゲームス(ルビーパーティー), 2017.
- コーエーテクモゲームス. 遙かなる時空の中で6 DX(Nintendo Switch). コーエーテクモゲームス(ルビーパーティー), 2019.
- コーエーテクモゲームス. 遙かなる時空の中で7(Nintendo Switch). コーエーテクモゲームス(ルビーパーティー), 2020.
- コーエーテクモゲームス. 下天の華 with 夢灯り 愛蔵版(PlayStation Vita). コーエーテクモゲームス(ルビーパーティー), 2016.
- 任天堂/インテリジェントシステムズ. ファイアーエムブレム 風花雪月(Nintendo Switch). インテリジェントシステムズ/コーエーテクモゲームス(シブサワ・コウ), 2019.
- ポケモン/任天堂/クリーチャーズ/ゲームフリーク. Pokémon LEGENDS アルセウス(Nintendo Switch). ゲームフリーク, 2019.
- 任天堂/コーエーテクモゲームス. バディミッション BOND(Nintendo Switch). コーエーテクモゲームス(ルビーパーティー), 2019.
- コーエーテクモゲームス. シェルノサージュ OFFLINE ~失われた星へ捧ぐ詩~(PlayStation Vita). コーエーテクモゲームス(ガスト), 2014.
- コーエーテクモゲームス. アルノサージュ~生まれいずる星へ祈る詩~(PlayStation Vita). コーエーテクモゲームス(ガスト), 2014.
書籍
- 神田千里. 戦国と宗教. 岩波書店, 2016.
- 清水克行. 喧嘩両成敗の誕生. 講談社, 2006.
- V. E. フランクル. 夜と霧 新版(池田香代子訳). みすず書房, 2002.
- 上田閑照. 私とは何か. 岩波書店, 2000.
- 小野不由美. 図南の翼 十二国記. 講談社, 1996.
- 山本芳久. 世界は善に満ちている——トマス・アクィナス哲学講義. 新潮社, 2021.
Webサイト
- "『アンジェリーク』が切り拓いた90年代――乙女ゲームの歴史をNo.1とOnly Oneでプレイバック【乙女ゲームLabo】". B's-LOG.com. 2018-04-23. https://www.bs-log.com/20180423_1281842/, (参照 2024-05-20).
- 照二朗. "八葉デザインの「八卦象意」―『遙か』と日本文化の世界①". 湖底より愛とかこめて. 2020-07-13. https://www.homeshika.work/entry/2020/07/13/235627, (参照 2024-05-21).
- 照二朗. "生者の掟―遙か7長政ルート感想". 湖底より愛とかこめて. 2020-07-20. https://www.homeshika.work/entry/2020/07/20/224534, (参照 2024-05-21).
- 照二朗. "【Ⅺ 正義】聖キッホルの紋章―FE風花雪月とアルカナの元型⑦". 湖底より愛とかこめて. 2020-03-21. https://www.homeshika.work/entry/2020/03/21/220437, (参照 2024-05-21).
*1:この間ダイレクトマーケティングも受けた。
*2:日本語ではアロマンティック・スペクトラムと表記されます。つまり定訳がありません。カタカナで書きたくなかったので本文では英語のままです。
*3:定量的に評価できませんでした。というexcuseを付けておく。
*4:『葬送のフリーレン』のマハト編はなかなか良かったです。
*5:それほど多くは読んでいないが……
*6:今もそれほどないかもしれない。
*7:無限回とまでは言わずとも、複数回の試行を繰り返せたらこれをする必要はなかったのですが。
*8:名称の由来はおそらく仏教の「八葉蓮華」
*9:陰陽2^3=8
*10:全てではない。他の面の特徴をよく反映しているキャラクター例:『風花雪月』リンハルト、『アンジェリーク ルミナライズ』ロレンツォ、『LEGENDS アルセウス』ウォロ
*11:この表現の出所は『グノーシア』のラキオ
*13:事の次第によっては「どうしようもない」?
*14:正直、起こるとは考えづらい。
*15:存在を証明された=神秘を剝がされた神は「神」と呼びえないと思いますが。
*16:テルトゥリアヌス
*17:ポンパドゥール夫人
*18:「人の世」とか「現世」と言える?
*19:『アルセウス』の主人公が帰れないのは天命を果たし終えていないからだと思う。たぶん一生帰れない……
*20:エーデルガルト
*21:もっとよく考えるとおかしくない。
*22:譲は「光」が望美なので違いますが……
*23:正確に表示できませんでした。
*24:飛躍であったとしても「以下のような解釈が可能である」というだけの話なので大した問題ではありませんが。
*26:本稿を書くために読み返していたら発見した。
*27:わざわざ言及するからには『下天の華』の方を踏まえていると思うんですよね……
*28:これ「存在」じゃないですか?